有名な財閥リスト (日本の財閥研究) 14552

巨大な企業郡

アルカイダの黒幕は、やはり日本の財閥だったのか?
1 名前:さくら

2018/03/01 (Thu) 03:54:20

アルカイダの黒幕は、やはり日本の財閥だったのか?

http://3rd.geocities.jp/jcon_tline/02/n/1/9/4/6/n1946_9_06J.html

日付はそうなっている。

アルカイダは、アメリカ同時多発テロで米国を攻撃したが、

その設立の日、レーガン米大統領は日本に土下座した。

(個人的見解)

http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/02/0228.html
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/03/0303.html
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/03/0312.html
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/01/d/02/0224.html
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/01/d/02/0225.html
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/01/d/03/0301.html

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誰かに教えたい、たまらなくて…。
1 名前:久山

2014/09/19 (Fri) 07:03:36


最後に一つ、いわせてください。
若いときにつくった借金の返済が辛かったんです。
ある場所で噂になっていた掲示板を教えてもらいました。
ただでお金をもらえてしまって…本当に今でも信じられません。
お金にはかなり余裕がある方みたいですね。
ただでお金がもらえるなんて、こんな都合のいいことってありなんでしょうか?
今すぐあなたも連絡してみませんか?

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本当に嬉しかったです。
1 名前:高下

2014/09/16 (Tue) 06:54:59


こんな場所には不慣れですが、聞いてください。
給料が少なく、生活が豊かになりませんでした。
でも、今までこんなことをしらなかったなんて。
連絡するだけでよかったんです。
人生がかわりました。
私はもう振り込んでもらったので、次はあなたの番です。
もしよければ、是非みてください。

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幸せってやっぱりお金だと思うんです。
1 名前:塩月文音

2014/09/15 (Mon) 12:27:58


たくさんの人に教えたくて、こうして書きます。
昔、親の借金があって夜の生活とかずっと続けていました。
人生を変えてくれる人と出会いました。
連絡するだけで一生使い切れないほどのお金をもらえたんです。
お金に余裕ができたら家を購入しようと考えてます。
こうしている間にも、続々連絡してお金を手に入れている人がいます。
今すぐ連絡したほうがいいはずです。
http://hum.thick.jp/

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ナポレオンは明らかに日本最後の女性天皇を祝福した。
1 名前:ねこ

2014/09/03 (Wed) 16:34:23

ナポレオンは明らかに日本最後の女性天皇を祝福した。

http://park.geocities.jp/jpcdebate/P02/p208.html#page208

http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/09/0915.html#1812

ナポレオン戦争は、天皇の歴史にことごとく語呂合わせあれており、

ナポレオンが日本人であることは、間違いない。

特に、女性最後の天皇後桜町天皇は、現在でも「大奥」体制で日本を支配する

天皇一族にとって、最高の天皇だった。

(仮説を示す)

( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0102/p005.html )

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援助してもらえて本当に助かりました。
1 名前:井島

2014/09/01 (Mon) 14:52:10


どうしても言いたくてこの場を借りさせていただきました。
幸せなんて知らないまま女として生きてきました。
あるとき、人からここを教えてもらいました。
ただでお金をもらえてしまって…本当に今でも信じられません。
疑っていたら手に入ることは絶対ないですね。
ただでお金がもらえるなんて、こんな都合のいいことってありなんでしょうか?
はやく連絡したほうがいいです。

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嬉しかったです。
1 名前:taninaka

2014/07/12 (Sat) 22:07:43


絶対にお得な情報だと思うのでお伝えします。
母子家庭で4歳の娘がいて、何も買ってあげられなかったんです。
ある人に出会わなければ私の人生は何も変わっていなかったと思います。
連絡しただけで、本当にお金をもらえてしまったんです。
お金に困ってたから連絡してみたらその日のうちに振り込まれていました♪
実際にお金を受け取ってしまうと、人生は何もかもうまくいくことがわかりました。
絶対に連絡したほうがいいと思います。
本当に感謝しています。

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幸せってやっぱりお金だと思うんです。
1 名前:美留

2014/07/12 (Sat) 18:15:00


どうしても言いたくてこの場を借りさせていただきます。
つまらない人生、それが私だと思って生きてきました。
ある人が、私に楽になる方法を教えてくれたんです。
おそるおそる連絡をしただけで、本当にお金が振り込まれたんです!
ちなみに相手は女性の方でした。
こうしている間にも、お金を手に入れている人がいます。
もしもあなたも困っていれば、いますぐ連絡してみてください。

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本当信じて連絡してよかったと思います。
1 名前:horimoto

2014/07/05 (Sat) 17:16:24

どうししても伝えたくなりました。
もう本当に小さい頃からお金には困っていました。
ある人が、私に楽になる方法を教えてくれたんです。
最初は半信半疑だったんですけど、実際にすごい大金をもらってしまって…。
疑っていたら手に入ることは絶対ないですね。
こんなこと私だけが知っているなんて、申し訳なくて。
もしもあなたも困っていれば、いますぐれんらくしてみてください。
嬉しかったです。
http://chance.flier.jp/

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これマジだよ!
1 名前:星璃守

2014/06/30 (Mon) 15:31:24

とてもびっくりでどうしたらいいのかわからなかったですが、翌日銀行に行ってみたら、振り込まれてました。

嘘だと思うなら連絡してみてください!

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本当おどろきだよ!
1 名前:乃寧

2014/06/30 (Mon) 11:42:31

怪しいとは思ったけど、お金に困ってたから連絡してみたら次の日に振り込まれてた!

女性だったしすごくイイ人だったから安心できたし、しかもまた困ったら連絡するように言われたし。
色んな人に支援してるみたいだから、困ってるなら連絡してみたらどうかな!

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人生変わりますよ!
1 名前:好音

2014/06/28 (Sat) 05:54:45

半信半疑で連絡をしてみたら翌日に3000万送金されました。
3000万ですよ!
私も驚きましたけど、受け取って欲しいという事だったので、遠慮なく受け取りました。
他にも困ってる人がいたら紹介してくれて構わないという事だったので、連絡先を載せておきますね!

私もここから連絡しました。
お互い幸せになれたらいいですね!

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本当びっくりです
1 名前:望亜

2014/05/30 (Fri) 23:42:02

明日から消費税が上がるし、ますます生活が苦しくなると思ってた時に出会いました。
とてもびっくりでどうしたらいいのかわからなかったですが、翌日銀行に行ってみたら、振り込まれてました。

嘘だと思うなら連絡してみてください!

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早く連絡した方がいいですよ!
1 名前:奈愛翠

2014/05/30 (Fri) 05:22:59

私も最初は疑ってましたけど、半信半疑で連絡してみたところ、
今日銀行に行って確認しましたら、3000万振り込まれてました!!

私のように夢がある人やお金に困ってる人に支援しているみたいです。
おかげで夢だった自分のお店が持てます。

とにかく連絡してみてください。
きっと私のように驚くと思います。

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こんなに頂いていいのか…
1 名前:

2014/05/29 (Thu) 15:46:14

迷いましたけど、必要だったのでありがたく受け取る事にしました。

お金に困ってる事があれば連絡してみてください。
とっても親切で良い方でしたので、きっと力になってくれると思います。

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これ本当です!本当に受け取れました!
1 名前:千愛美

2014/05/29 (Thu) 07:08:38

先日紹介されたブログから連絡してみたら、5000万振り込んでくれました!

銀行に行くまで実感なかったけど、記帳して本当におどろきました!
女性だったしまた困ったら連絡してと言われたけど、私はもう十分だからよかったらどうぞ♪
きっとおどろきますよ!

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ナポレオンの使命は「アメリカ建設」
1 名前:ねこ

2014/04/16 (Wed) 12:07:28

ナポレオンの使命は「アメリカ建設」
http://park.geocities.jp/jpcdebate/P02/p208.html#page208
これは驚くべき事実だ。だが、間違いない。
天皇一族は、「新大陸」、「新世界」の開発を決定した。
準備は完ぺきだ。アメリカ大陸の膨大な土地の所有権は、
国家・自治体の政治を牛耳ることで、事実上独占した。
これらの膨大な土地を数百年かけて小刻みに売りさばき、
結果として宇宙的数字の利益を上げる。
考えてみると、「土地の所有権」ほどいい加減なものはない。
大地主の祖先は、ほとんど泥棒、略奪、詐欺といった手法で
土地を手に入れる。さもなければ、莫大な土地を一部の人間が手にできるはずがない。
アメリカの広大な土地には、莫大な数の土地の買い手が必要だった。
そこで使われる手法はまたもや「逆転陰謀」だった。
アメリカの土地を宣伝しない。だが、ヨーロッパを混乱と戦争で、
住めない土地に変え、膨大な移住者を呼び込んだ。
その先頭を走ったのが「ナポレオン」だった。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/P08/p188B.html )

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日本の企業幹部は、ほとんど「裏繰り者」
1 名前:ねこ

2013/12/13 (Fri) 13:16:22

日本の企業幹部は、ほとんど「裏繰り者」
http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p007.html#page161
天皇一族の人類支配は、本当に巧妙で、
まさに、家康の言う通りだ。
「泣くまで待とうホトトギス」。
「百姓は生かさず殺さず」。
日本の企業は、「いじめ」を目的に営業されており、
本来自由競争では生き残れないはずだが、
全ての業界が八百長で、独占・共謀状態だ。
そして、アフリカ・中東などの発展途上国から、
膨大な金品を巻き上げており、その裏金で採算が取れている。
何ともおそまつな話だ。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0102/p004.html )

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明治政府樹立はナポレオン生誕100周年
1 名前:ねこ

2013/11/08 (Fri) 11:05:47

明治政府樹立はナポレオン生誕100周年

http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p035.html#page237

日本がナポレオン帝国だったのではなく、

フランスが、ナポレオンを介した日本の植民地だった。

(仮説を含む)

( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0103/p031.html )

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大和朝廷は古代エジプト海洋帝国だった。
1 名前:ねこ

2013/10/14 (Mon) 18:53:37

大和朝廷は古代エジプト海洋帝国だった。
http://park.geocities.jp/j_con4/0204/p047.html#page307
天皇一族は、その長い人類支配の中で、
「安全保障」がいかに難しいかを学んでいった。
その結論は、「人は石垣、人は城」だった。
堅固な城壁は攻撃の的になる。
それよりも、敵を欺き、絶対にこんな所にはいないだろうと錯覚させる場所を作った。
それが、国内では、「同和部落」であり、地球規模では、「日本」だった。
「日本」が帝国の本拠地に選ばれたのは。このような地の果てに、
国王がいることなど絶対にあり得なかったからだ。
国内でも、的に包囲されたら、同和部落に逃げ込めば、
絶対に敵は追ってこないと考えられた。
大金持ちが、万一のために地下核シェルターを作るように、
天皇一族は、万一のために、「同和部落」を作っていった。
「イスラエル」も一種の同和部落と考えていいだろう。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0103/p032.html )

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1:三井財閥
1 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:01:38

三井財閥


創業家:三井家

標章:丸に井桁三


三井財閥(みついざいばつ)は、三井越後屋(三越・三井銀行)を源流に始まった。
日本三大財閥の一つ。


江戸期

名所江戸百景 駿河町(歌川広重)
越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。




三井越後屋京本店記念庭園、高利が開いた京本店跡
三井家の歴史は、太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという[1]。

早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』52頁によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、このへんは後から系図を作ったのかもしれない。」という。

三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(三越)を創業。京都の室町通薬師町に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。

三井家は明治維新新政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなり、幕末・維新期では日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた[2]。

戦国期から近世初期にかけて活躍した大商人は外国貿易に従事した者、台頭しつつある新勢力で大名と結んで戦時用物資の調達にあたった者などであった。貿易商人としては、角倉了以、茶屋四郎次郎、末吉孫左衛門、島井宗室、末次平蔵他であった。貿易商人は鉄砲の輸入などで大名と結びつく機会があった、これらが初期豪商であった。このような政商的性格の強い初期豪商に対し、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う者が現れた。これらが近江商人・京都商人・伊勢商人などで、三井や鴻池・住友などの近世本町人であった。

2 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:03:20

明治・大正期

明治維新後の中央集権政策の下、明治政府の三井家に対する諸御用の任命は、経済関係官庁未整備という条件のもとで経済政策技術の不足を補うために、政府は三井の巨商に期待したものであった。1872年(明治5年)越後屋呉服店を三井の本流から切り離し、1876年(明治9年)三井銀行を創業。また同年に益田孝と井上馨によって設立された先収会社・貿易会社を合併させ、三井物産を創設した。政府は1880年(明治13年)頃から官営工場を三井や三菱などに安く払い下げた。そのため紡績業などが盛んになり、日本の産業革命を担う事になる。三井の転機は、明治十四年の政変で下野した慶應義塾出身者が多数経営に関わったところである[3]。旧来商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎によって『家』から『企業』に変革した三井は、不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せた(山陽鉄道、箕面有馬電気軌道)。1893年(明治26年)には三井鉱山が設立され、1909年(明治42年)三井家の出資により持株会社・三井合名が設立され、参加の中核企業を有限会社から株式会社へ移行した。第一次世界大戦の好景気で産業が伸びていくさなか、財閥批判により團琢磨が血盟団員によって暗殺される。財閥攻撃の嵐の中で三井財閥を防衛し、その改革を託された池田成彬は、大胆な財閥転向施策により、紆余曲折を経験しながら日本最大の財閥へ拡大する。また、政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党は三菱財閥が資金をまかなっていた





人の三井 [編集]

西郷隆盛から「大番頭」と呼ばれた井上馨や、岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、有能な人材を多く配したことから「人の三井、組織の三菱」と言われたり、三井「番頭政治」三菱「独裁政治」、これに対して住友は「結集の住友」と後世呼ばれた(東洋経済新報367号、1970年(昭和45年))。これは各企業がばらばらに動きやすい特色を持った三井に対して三菱・住友の連帯と結束の強さを表したもので、三井系トップ・マネジメントには優れた個性の強い人物を多数輩出したことが要因でもあった。
主な人物、三井高陽、朝吹英二、藤山雷太、和田豊治、山本条太郎、鈴木梅四郎、三野村利左衛門、日比翁助、武藤山治、藤原銀次郎、馬越恭平、万代順四郎、向井忠晴、石田礼助、萩原吉太郎、佐藤喜一郎、水上達三、江戸英雄、小山五郎、小林一三

第一国立銀行・日本銀行 [編集]

1871年(明治4年)6月、三井八郎右衛門は「新貨幣御発行為替座御用」を命ぜられた。その業務は金銀の地金を受け取って引き換えに新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局へ送ることであった。小野組、島田組を差し置いて政府の命を受けた三井組は1872年(明治5年)4月に御用所を東京・大阪・京都・横浜・神戸・松坂・函館の七都市に設立。この頃米国へ派遣された伊藤博文は吉田清成と国立銀行の設立で意見が対立する事になり、政府は三井組に真成の銀行を設立するように予告しながら、すぐその後に政府の銀行政策が変更されて三井組一個の銀行設立を認めず、小野組と第一国立銀行を設立する方針がとられた。三井は強制的に政府の指導に従い、海運橋畔に建築していた三井組本部予定の建物を第一国立銀行に提供させられるという負担を負った。当初三井・小野組で200万円を出資し、残り300万円を一般募集するつもりでいたが、一般からは44万余円しか無かったため、資本金244万800円として1873年(明治6年)6月11日に創立総会を開きただちに開業した。総監役として渋沢栄一が乗り込み、事実上の頭取として実権を握った。三井にとっては呉服部門を分離までして、真成の銀行を設立しようとしたが、その希望を政府によってすりかえられ、自己の銀行を持ちたいという願望はくすぶり続ける事になった。その後三井銀行創立を果たした三井だが、日本銀行創立により官金取引業務が出来なくなり、更には三井銀行の三野村利助が引き抜かれ日銀理事に就任した。




3 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:05:37

工業化 [編集]

明治初期以来、鉱工業への進出は著しく、商業主義と言われた益田孝でも三池炭鉱や神岡鉱山に進出した。中上川彦次郎の工業主義が急進的であったので、それとの対抗上、商業主義を強調した傾向がある。益田孝が鉱工業を軽視していたのではないもう一つの証拠は、三井合名理事長に團琢磨を選出し、芝浦製作所を三井の傘下に置いたことである。三井物産は、自ら三井船舶や三井造船を分離していく一方、海外からのノウハウをもとにして東洋レーヨンなどを起こして多角化していった。1895年(明治28年)の三井工業部は、『芝浦製作所』、『三重紡績所』、『名古屋製糸所』、『大崎製糸所』、『富岡製糸所』、『前橋絹糸紡績所』、『新町絹糸紡績所』の7つが直系傘下であった。三井は職工に対する教育を銀行等ホワイトカラーと同じように優遇した。この姿勢は武藤山治によって引き継がれ、職員層(ホワイトカラー)と工員層(ブルーカラー)を選別しない「経営家族主義」「温情主義」と呼ばれ、当時の官尊民卑風潮において先駆的な労働管理思想であった。

日本最大の財閥へ [編集]

三井財閥は他の財閥に先駆けて、1909年(明治42年)に三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立した。世界史上における扱いとして、デュポンやロックフェラーは基本的には単一業種でクルップについても同じことが言える。ことにロックフェラーがスタンダード・オイルで採用したトラスティー方式は日本では見られなかった。その後、多数の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッド型に結合する形は一般化した。これによる生産の伸長に伴い、貿易が進展し、その担い手の商社も飛躍的に発展した。三井物産は取引額15億4000万円となり、三井工業部なども資本金が6倍、貿易金融には横浜正金銀行のほかに台湾銀行、朝鮮銀行、日本興業銀行、日本勧業銀行などが参加して外国為替業務を行うようになった。1915年(大正4年)の二十一ヶ条要求をきっかけに、中国・満州に進出。日本興業銀行を中心に役2.5億円の対中国借款が行われ、対外貸付額は総額11億円に達した。また、三井造船は日本初のディーゼル船・赤城丸などを導入。これら海洋国家と貿易の相乗効果で三井は日本最大の財閥として君臨した。

1913年(大正2年)には東京三田に日本最大の富豪だった三井家の豪華な接客用建物としてコンドルの設計により三井倶楽部が完成した。





帝国主義・満州国進出 [編集]

商品輸出の拡大や市場支配圏の獲得を目的に三井物産が国家政策と一体化して帝国主義的進出を展開した。満州事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて中国へ進出し、近代化に大きく貢献した。当時の香港の主要取引としては、欧州・日本・豪州及び東南アジア、清国沿岸地方が四大市場をなしていたが、欧米市場からは鉄、機械などの生産手段と綿糸布などの消費資料を輸入し、生糸、絹織物などの嗜好品が輸出され、日本からは綿糸布、石炭、燐寸などの消費資料、原料品、雑貨品が輸入され、棉花、砂糖、米などが輸出されていたが、日本にとって当該期の香港は主に輸出市場としての位置にあったのである。また、豪州・東南アジア市場との貿易は輸入において、米、石炭.錫の鉱産物、輸出においては茶、砂糖のほか雑貨品を主としていた。清国沿岸地域とは生糸、絹織物を輸入し、生産手段、雑貨品を輸出していた。そして、このような四大市場相互間には清国産の生糸、絹織物の欧米への輸出と、欧米からの生産手段、綿糸・綿布・綿織物の清国への輸入にみられるように有機的連関が形成されており、その中継港として香港市場があったのである。

満州買収計画 [編集]

この計画は、三井物産上海支店の取引と関連して起こった。1911年(明治44年)中国に辛亥革命が起こり、米国に亡命していた孫文が大統領に就任し、三井に革命軍の軍資金の提供を申し込んだ所に発端があった。のちの第一革命の直接の動機となったのは郵伝部尚書盛宣懐の鉄道国有化案であった。このとき軌条統一に要する資料を、三井が日本興業銀行から借り入れて融資をしていた漢陽製鉄所に求めようとした。三井は大治鉄鉱、漢陽製鉄、炭礦の合同に成る公司の日中共同経営を条件に巨額の借款に応じた。公司から民間政府へ500万円の貸与の条件もあり、この借款契約の調印と同時に「中華民国政府は将来支那に於ける鉱山、鉄道、電気其他の事業を外国人に許可する場合には、他と同条件なれば三井物産株式会社に其許可を与ふる事を承認す」という契約書を取り交わした。まもなく孫文が大統領の地位を退いたため、この借款の融資は一部しか実行されなかったが、中国通を抱えていた三井は、中国革命を援助しながら商権の拡張を図った。1913年(大正2年)夏の第二革命挙兵後、革命軍の資金調達難を見た森恪が、二個師団分の武器と2000万円の現金でもって満州を買収する交渉を行った。革命の後、孫文の亡命によって実現しなかったが、この満州買収計画は森が益田を通して井上馨に通じ、その仲介によって桂太郎の了解を得て行ったものであった。

軍需産業 [編集]

満州事変がきっかけとなり、軍事費が膨張し、軍需景気を引き起こし、重化学工業発達の強い要因となった。中国・満州への進出には日産・日窒・昭和電工などの新興コンツェルンが熱心であった。軍部には既成財閥、特に三井に対して強い反感があったとし、新興コンツェルンには、堂々たる努力で築いてきた電気化学工業部門において、既成財閥が追い上げてくるといった事情があった。三井は1933年(昭和8年)東洋高圧・日満アルミニウム、1934年(昭和9年)レーション曹達を設立して化学工業を拡大し、石川島タービン・玉造船所(のちの三井造船)を新設して機械工業に力を入れ始め、益田孝以来の商業化路線から工業化路線へ走った。三菱は、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を合併して三菱重工業を新設し、東京鋼材を増資によって強化した。住友は住友伸銅鋼管と住友製鉄所が合併して、住友金属工業が設立された。第一次世界大戦後の不況を抜けると、日本政府からの戦争協力を求められた三井は、のちに南条金雄(三井合名理事)の下、積極的に国策協力を推し進め、軍需生産の基幹を成す石炭鉱業、金属鉱業が急速に伸長した。この頃の炭鉱の動きは、三池、田川、山野、砂川、美唄など既設の事業所の強化と拡充が試みられた。樺太の西柵丹炭鉱が1938年(昭和13年)12月に西柵丹鉱業所として設置。川上鉱業所と合併して1941年(昭和16年)に千緒炭鉱を買収して経営に当たった。この頃全国における三井鉱山の石炭産出量は13%から20%近い比率となっていた。金属部門では三成鉱業のほか、朝鮮の義州鉱山、本州では日本亜鉛鉱業の設立があった。またアルミを原料として航空機の生産を行うために、1941年(昭和16年)に日曹系の西鮮化学を吸収した東洋軽金属(後の三井軽金属)が朝鮮においてアルミ精錬を開始、さらに陸軍航空本部と朝鮮総督府のすすめにより、1942年(昭和17年)、昭和飛行機平壌工場を買収し、朝鮮飛行機製作所とした。

海外進出 [編集]

三井鉱山も物産と同様、満州事変以後、満州・中国・南方占領地域へ進出し、諸事業を経営するようになった。南方の占領地では陸軍次官の通牒によって、フィリピン、スマトラ、仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)、ビルマ、マレー、ジャワ等の鉱山・炭礦・精錬所などの強制的な経営協力を命ぜられた。しかし、これらの諸投資は敗戦によって水泡に帰してしまった。
満州合成燃料 - 資本金5000万円 1937年(昭和12年) - 満州国・三井物産・三井合名などの共同出資。フィッシャー法による人造石油製造。
熱河礦山 - 資本金100万円 1937年(昭和12年) - 満州国との共同出資。銅・亜鉛・鉛の採掘・精錬。
三宝礦業 - 資本金100万円 1939年(昭和14年) - 主として石炭。
天宝礦業 - 資本金350万円 1938年(昭和13年) - 1940年(昭和15年)より三井鉱山の経営。亜鉛採掘。
中興炭礦 - 1939年(昭和14年)山西省の現地日本軍より管理命令を受ける。のち公司となる。
准南炭礦 - 1938年(昭和13年)安徽省の日本軍より破壊された炭礦の復旧を命ぜられ、中国・三菱との共同経営となった。1939年(昭和14年)には資本金1500万円の公司となる。三井鉱山持株は20%、三菱は13%であった。






財閥解体 [編集]

第二次世界大戦後、GHQは財閥を軍国主義と封建主義の精神的支柱であるとし、1946年(昭和21年)9月三井、三菱、住友、安田、旧中島飛行機が持ち株会社に指定され、三井・三菱の経済力の中核とみなされた三井物産と三菱商事は財閥解体により解散した。

財閥解体後 [編集]

戦後、日本経団連の誕生で財界は総主流体制に移行した。戦前は旧三井財閥を軸とする保守本流、重厚長大企業が中心で、大企業のすべてが経団連の重要ポストである正・副会長に名を連ねてはいなかった。バブル後はトヨタ自動車、NTT、松下電器産業、キヤノン、武田薬品工業などが加わる。旧日経連に力を入れていた旧三菱系企業も統合後は顔を出すようになる。

他財閥と同様「三井グループ」としてグループ化をするも、相対的弱体化を余儀なくされる。その主な原因は、帝国銀行から第一銀行が分離したことによる三井銀行が被った大きな損失で、三井銀行は資本金の約50%を失った。そのため三井系会社が必要とするクレジットを提供することができなくなり、グループのいくつかに対する影響力を失い、他のグループの銀行がこれらの会社の主要な債権者になった。また三井系の生産会社間の有機的、生産的、金融的結びつきの弱さがもう1つの原因となり、一連の会社が三井との関係を弱めたり分離したりすることになった。

さらに三井グループの中核会社である三井物産の解体も大きく影響し、三井物産を基盤にしてすすめられた三井物産と第一物産の再合同は、第一物産が富士銀行の融資系列下にあったため手間取り難航した(なお、三井物産と芙蓉グループとの関係はこの関係から生まれたともいわれる)。そのため三菱グループや住友グループなどと比べてもゆるやかな連合体となっており、グループ企業には独立色の強い企業(トヨタ自動車、東芝、フジクラなど)や他の企業グループに重複して加盟している企業もある。

サントリーやIHI、サッポロビールの結集はやや遅れたが旧三和系、旧芙蓉系、旧第一勧銀系を満遍なく取り込んだ。富士フイルムなどは新規加盟の部類である。三井財閥系企業が八重洲・日本橋、三菱財閥系企業が大手町・丸の内に集積している事から、それぞれを「三井王国」・「三菱王国」とも呼ばれる地区の存在になっている。また、東京放送ホールディングスが二木会・月曜会・三井業際研究所・三井文庫に加盟し、TBSテレビが月曜会に加盟したことにより三井グループはマスメディアも包括する企業集団となった。

2001年(平成13年)に三井グループの中核銀行であるさくら銀行が住友グループの中核銀行・住友銀行と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも三井系と住友系の企業の合併や業務提携が相次いだ。源流企業の三越は、三菱東京UFJ銀行との関係が深い伊勢丹と2008年(平成20年)4月に持株会社の三越伊勢丹ホールディングスを設立、経営統合した。日本国政府(整理回収機構)は、中央三井トラスト・ホールディングスの発行済み株式総数のうち議決権ベースで30.29%(2009年(平成21年)8月現在)を保有する筆頭株主となっている。同社は2012年(平成24年)に住友信託銀行と経営統合する。



4 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:06:54

関連項目 [編集]
三井グループ
二木会
綱町三井倶楽部
三井家
三井報恩会
三井記念美術館
三井文庫
三井はぜ
日本銀行
東洋瓦斯機工 - 元東洋高圧工業からガスプラント関連部門が分離。現在はINPEXグループに帰属
三国コカ・コーラボトリング - 戦後に三井化学(旧東洋高圧工業)により設立、のち三井物産が保有株の大半を肩代わり。なお、2012年度末の外資主導によるボトラー統合により旧財閥系資本の整理が始まっている。
フジクラ - 三井財閥時代は三井物産の傘下にあった。
イビデン - 戦前は東邦電力(東邦ガス・中部電力)の傘下にあった。戦後はトヨタグループと徐々に接近。
東洋エンジニアリング - 元東洋高圧工業から工務部門が分離、大成建設・三井物産との三社合弁により設立。
東食 - 元は三井物産が戦後に旧食品商社機能の一部を分離して設立。のち三井月曜会に参加するなど三井グループと関係強化、多角化するも倒産。現在はカーギルの日本法人(カーギルジャパン)となり現在に至る。
IHI - 旧:石川島播磨重工業。かつての石川島重工業が東京芝浦電気(現:東芝)と提携関係にあったことが起因となり戦後は三井と接近。
豊和工業 - 旧:豊田式織機・昭和重工業。豊田自動織機の兄弟会社であり、トヨタをはじめ旧東海銀・三井グループ各社の資本が入っている。但し、三井系の資本は寡少である。

外部リンク [編集]
三井広報委員会 (日本語)
綱町三井倶楽部 (日本語)

5 名前:匿名

2013/03/22 (Fri) 09:34:24

三井グループ


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97


移動: 案内、 検索




三井グループ




創業家:

三井家



標章:

丸に井桁三


三井グループ(みついグループ)は、日本の企業グループのひとつ。戦前の三井財閥の流れを汲む企業の連合体。





目次
[非表示] 1 概要
2 ロゴ
3 三井グループ主要各社
4 三井グループと親密な企業
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク


概要 [編集]

戦前の三井財閥は日本最大の財閥として財界に君臨したが、戦後の財閥解体後、同じ旧財閥の三菱グループ・住友グループに比べて再結集が遅れたこと、本来中核となってグループに資金供給をすべき三井銀行が帝国銀行の分裂によって規模が縮小してしまっていたこと、高度経済成長期の重化学工業化に乗り遅れたこと、などから戦前に比べその相対的な地位は低下した。そのため三井グループは表面上、あまり結束が強くない。また、東芝やトヨタ自動車、サントリーなどが、そして東芝との関係からIHIなども加わっている。しかしながら、表に現れない部分での結束は未だ残っており、三井系列企業経営層専用のクラブ、そして三井記念病院内にも経営層クラス専用の特待病室があることが知られている。

最近の動きとしては、三井鉱山は新日本製鐵(現:新日鐵住金)等の支援を受け経営再建を目指し、「日本コークス工業」と改名し三井グループから離脱。2008年4月には、三井財閥の源流である越後屋呉服店の後裔三越が、三菱東京UFJ銀行(旧三菱銀行)をメインバンクとする伊勢丹と共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し経営統合した。一方で、さくら銀行(旧三井銀行)は住友銀行と合併し三井住友銀行に、富士フイルムや東京放送ホールディングス(旧東京放送)等の二木会への新規加盟や、トヨタ自動車等の支援を受けた三井住友海上のあいおい損保やニッセイ同和損保との経営統合等、グループの新陳代謝も活発である。

二木会加盟の企業の中では、三井の名前を冠さない三井傍系の大企業が多数あり、それらと直系との強い結びつきを模索する動きが見られる。

ロゴ [編集]

丸囲みの井桁に「三」の文字が入ったもの[1]。原則として「三井」と名乗る企業で使われるが、三井住友銀行や三井住友海上火災[2]、商船三井など三井と名乗っても他のグループと合併した会社は、三井と名乗らない企業と同じようにこのロゴを使わない。また最近、三井広報委員会でもこの井桁マークを使っていない。

また、三井を冠する企業でも三菱グループにおけるスリーダイヤや住友グループにおける井桁に比べて企業再編が活発になる以前の1970年代時点で三井の丸囲みの井桁に「三」を採用しない会社は三菱や住友の前述のマークに比べて多かった[3]。

三井グループ主要各社 [編集]

かつて旧三井銀行・三井物産・旧三井鉱山の三社が「三井グループ御三家」と呼ばれていた。戦後は三井本社を吸収合併した三井不動産が、旧三井鉱山に代わり御三家の一角を占めている。



社名

二木会

三井広報
委員会

三井業際
研究所

綱町三井
倶楽部

月曜会

三井文庫



IHI



-











イビデン

-

-



-



-



イビデングリーンテック

-

-

-

-



-



宇徳

-

-

-

-



-



エームサービス

-



-

-







王子ホールディングス







-







 王子製紙

-

-

-



-

-



カネカ

-

-

-

-

-





極東石油工業

-

-

-

-



-



サッポロホールディングス

-

-

-

-



-



 サッポロビール

-



-

-



-



三機工業















サントリーホールディングス

-



-

-

-

-



JA三井リース

-



-

-







商船三井















 エムオーツーリスト

-

-

-

-



-



昭和飛行機工業

-

-

-

-







新日本空調

-



-









ジーエス・ユアサコーポレーション

-

-

-

-



-



住友三井オートサービス

-

-

-

-



-



太平洋興発

-

-

-

-



-



太平洋セメント



-











第一園芸

-

-

-

-



-



ダイセル

-

-

-

-







電気化学工業















東亞合成

-

-

-

-



-



東京放送ホールディングス



-



-







 TBSテレビ

-

-

-

-



-



東芝



-











東洋エンジニアリング

-





-



-



東レ















東レインターナショナル

-

-

-

-



-



西日本電線

-

-

-

-



-



トヨタ自動車



-





-





日本紙パルプ商事

-

-

-



-

-



日本製鋼所















日本製紙グループ本社



-



-



-



 日本製紙

-

-

-









日本製粉



-











日本ユニシス

-













フジクラ

-

-







-



富士フイルムHD



-



-







 富士フイルム

-

-

-





-



物産不動産

-

-

-

-



-



三国コカ・コーラボトリング

-

-

-

-



-



三井海洋開発

-

-

-

-



-



三井化学















 三井化学東セロ

-

-

-

-



-



三井共同建設コンサルタント

-

-

-

-



-



三井金属鉱業















三井情報

-

-

-

-







MS&ADインシュアランスグループHD

-

-

-

-



-



 三井住友海上火災保険[4]















 三井住友海上プライマリー生命保険

-

-

-

-



-



三井住友建設[4]



-



-

-





三井住友トラストHD[4]















 三井住友信託銀行[4]

-

-

-

-



-



三井住友FG[4]



-



-



-



 三井住友銀行[4]

-



-









 三井住友カード[4]

-

-

-

-







 SMBC日興証券[5]

-

-

-

-







 SMBCフレンド証券[4]

-

-

-

-







 SMBCコンサルティング

-

-

-

-



-



 SMBCファイナンスサービス

-

-

-

-



-



 さくらカード

-

-

-

-



-



 さくら情報システム

-

-

-

-



-



三井住友ファイナンス&リース

-



-

-







三井精機工業

-

-

-

-



-



三井製糖

-

-



-







三井生命保険















三井石油

-



-

-







三井石油開発

-

-

-

-







三井倉庫















 三井倉庫ロジスティクス

-

-

-

-



-



三井造船















三井デザインテック

-

-

-

-



-



三井農林

-

-

-

-



-



三井物産















三井不動産















 三井不動産住宅サービス

-

-

-

-

-





 三井不動産住宅リース

-

-

-

-

-





 三井不動産リアルティ

-

-

-









 三井不動産ビルマネジメント

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-

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 三井不動産レジデンシャル

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 ファースト・ファシリティーズ

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 ららぽーとマネジメント

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三井ホーム

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三井松島産業

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三井三池製作所

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三越伊勢丹ホールディングス















 三越伊勢丹

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室町殖産

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二木会は、財閥解体で緩みかかったグループの連帯維持を目的に設けられた「月曜会」を母体として、1961年に発足し、グループ企業の会長・社長を集めて行う懇談昼食会を活動の中心としている。毎月第2木曜日に開かれるのでこの名がある。またグループの内部広報紙を発行する三友新聞社にも出資している。
三井広報委員会は三井グループの広報を目的としている。
三井業際研究所は、業種の枠を超えた「異業際分野における知識集団としての機能を果す」(同研究所公式ページより)事を目的に、二木会の直属機関として1978年に設立された。
綱町三井倶楽部は、グループ企業の課長クラス以上の役職員・OBの親睦を図る目的で設立された会員制クラブで、同名の歴史的建造物(現在もグループの迎賓館として使用。場所は東京都港区三田)を拠点としている。
月曜会は、三井グループ各社の役員間の相互親睦と情報交換を目的とする会合。月曜に会合が行われていたためこの名がある。二木会の母胎となったが、二木会発足後も存続している。
三井文庫は、三井文庫本館と三井記念美術館からなる公益財団法人である。

三井グループと親密な企業 [編集]
アルプス電気 - 三井グループと緊密。特に三井住友銀行(旧三井銀行)や三井住友信託銀行(旧三井信託銀行~旧中央三井信託銀行)は融資面において関係が特に強い。
オーケー食品工業 - 三井物産と日本製粉が支援を行っている中堅食品メーカー
オリエンタルランド - 三井不動産が大株主になっている。また、東京ディズニーランド・東京ディズニーシー内には三井住友銀行(旧三井銀行→さくら銀行、以下同)の出張所がある。
鹿島建設 - メインバンクは三井住友銀行(旧住友銀行)。三井不動産とも緊密。
極東証券 - 90年10月に三井グループ主要各社に資本協力を経て資本増強を行った事がある。また、それ以前に主力行である三井住友銀行(旧三井銀行)と業務提携を締結していた。
倉敷紡績(クラボウ)
グンゼ・グンゼ高分子・GSIクレオス - いずれも過去に三井財閥の傍系部門に郡是財閥(郡是製糸)として入っていた。現在は融資分はほぼすべて第一銀行(二代目。のち第一勧業銀行、現在のみずほコーポレート銀行)に継承され、資本面も一部を除き、株保有がほぼ皆無の状態になっている。
西部ガス - 三井住友銀行、三井生命保険、三井住友海上(旧大正海上火災→三井海上)等の三井系企業数社が主要株主として出資。
相模鉄道(相鉄)- 神奈川県基盤の大手私鉄。小田急による敵対的買収を、旧三井銀行の後ろ盾により免れた経緯がある。
JXホールディングス - かつて共同石油(現JX日鉱日石エネルギー)と合弁で設立した物産共石(現ジョモリテールサービス(略称:JOMO-RS))を設立。また、かつての子会社であった旧甲陽建設工業(現日陽エンジニアリング)の場合、旧三井銀行と旧三井信託銀行がそれぞれ主力行・準主力行となっていた。その他、タツタ電線も三井住友銀行が融資団の一員であり、旧日本鉱業は三井物産の共同出資で東邦チタニウム(現在はJXHDおよびJX日鉱日石金属が支配株主)を、また三井金属とパンパシフィック・カッパーを、それぞれ2社合弁で設立している。また諸事情により融資枠の入れ替えを行うこととなり、旧さくら銀行に旧中央信託銀行(後の中央三井信託銀行~現:三井住友信託銀行)から主力取引行が変更されたため、同様の理由で保有株式も肩代わりしている。 JX日鉱日石エネルギー - 親会社のJXホールディングス同様諸事情により融資枠の入れ替えを行うこととなり、旧さくら銀行に旧中央信託銀行(後の旧中央三井信託銀行~現三井住友信託銀行)から主力取引行が変更されたため、同様の理由で保有株式も肩代わりしている。

新生銀行 - 三井農林の主力行。このほか、トヨタ自動車へ取引金融機関以外の金融機関の一社として資本参加している。
セディナ(旧セントラルファイナンス)- 三井グループ内ではSMFG・SMBC・物産と関係が強い。また、住友色濃厚であった旧ダイエー系のカード会社・オーエムシーカード、および実質住友系のカード会社・クオークの両社と3社合併、新CI導入により商号と社名ロゴを変更し現在に至る。
セブン&アイ・ホールディングス - 傘下のイトーヨーカ堂は、古くから旧三井銀行と縁が深い。三井物産とも物流などの面で提携し、共同でショッピングモールの開発も行っている。 セブン銀行 - 三井住友銀行(旧さくら銀行)が主要株主の一社に名を連ねている。

セントラル警備保障 - かつて三井業際研究所に加盟していたが現在、脱退しているため二木会・三井広報委員会・三井業際研究所・綱町三井倶楽部・月曜会のいずれにも非加盟。但し、三井物産と上場子会社・もしもしホットラインが主要株主に残る。
ソニー - 三井住友銀行が(旧三井銀行時代から)メインバンク。草創期の会長に三井銀行元会長の万代順四郎が、またその後も社外取締役に小山五郎(三井銀行元会長)や岡田明重(三井住友銀行元会長)など、歴代の旧三井銀行出身者が就任していたことがある。また、三井住友銀行と共にソニー銀行を設立した。
東京電力 - 三井住友銀行が旧三井銀行以来からの融資団(旧興銀・旧三菱銀ほか)の主要メンバー。
ナイガイ - 三井物産や三井住友銀行(旧三井銀行)と取引等で関係が深い。
野村グループ - 三井グループ各社の主幹事を務めている。
日野自動車 - 現在はトヨタ自動車の子会社。
リゾートソリューション - 旧ミサワリゾートを野村プリンシパル・ファイナンス(野村グループ系列)と三井不動産がミサワホームホールディングスから買収したことから。現在は野村プリンシパル・ファイナンスの株主異動(ゲームソフト大手のコナミが保有株式の一部を肩代わり)により三井不動産が筆頭株主となっている。

脚注・出典 [編集]



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1.^ 企業によっては「三」の文字が直線でなく筆文字であったり、線の太さが異なったりする。なお三井物産のみ丸がない。 コラム「三井を読む」第4回 商いの大理想を新たな店章に託して
2.^ 前身の一つ「三井海上火災」も、大正海上から社名変更後も井桁マークを使用していなかった。
3.^ 例、三井銀行の八重桜の中に井桁に「三」など。
4.^ a b c d e f g h 三井住友フィナンシャルグループ(三井住友銀行、三井住友銀リース)、三井住友トラストHD(三井住友信託銀行)、三井住友海上火災保険、三井住友建設は住友グループでもある。
5.^ 旧大和証券SMBC(後に旧大和証券キャピタル・マーケッツを経て、2012年4月1日付けで「(3代目)大和証券」に統合)に代わり2010年1月1日付入会。

関連項目 [編集]
三井財閥
三井家
三井文庫
三井報恩会
三井記念美術館
三井本館
兼高かおる世界の旅(TBS系列、番組開始当初から1977年まで三井物産→三井グループがスポンサーだった)
クイズ世界をあなたに(TBS系列、一社提供)
世界にかける橋(日本テレビ系列、1982年まで提供)
三井ゴールデングラブ賞(日本プロ野球) TBSラジオ エキサイトベースボール(TBSラジオ、『エキサイトナイター』の時代のごく一時期、一社協賛で放送したことがある)


外部リンク [編集]





ウィキメディア・コモンズには、三井グループに関連するメディアがあります。

三井広報委員会
三井業際研究所
綱町三井倶楽部
三井文庫

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十五大財閥
1 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 09:33:18

十五大財閥

四大財閥に、GHQによる財閥解体指令を受けた11財閥を加えたものを、特に十五大財閥と呼ぶ。その多くは解散し、6大銀行グループに取り込まれていった。
三菱財閥(創業者:岩崎弥太郎)
住友財閥(創業者:住友政友)
三井財閥(創業者:三井高利)
鮎川財閥(創業者:鮎川義介)
浅野財閥(創業者:浅野総一郎)
古河財閥(創業者:古河市兵衛)
安田財閥(創業者:安田善次郎)
大倉財閥(創業者:大倉喜八郎)
中島財閥(創業者:中島知久平)
野村財閥(創業者:野村徳七)
GHQは以上を10大財閥と指定した。 渋沢財閥(創業者:渋沢栄一)
神戸川崎財閥(創業者:川崎正蔵)
理研コンツェルン(創業者:大河内正敏)
日窒コンツェルン(創業者:野口遵)
日曹コンツェルン(創業者:中野友禮)
GHQは以上を15大財閥と指定した。

  • 名前: E-mail(省略可):
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安田財閥
1 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 09:17:39

安田財閥



安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。

2 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 09:23:17

奉公人からの出発 [編集]

20歳で奉公人として江戸に出た安田善次郎が、26歳の1866年(慶応2年)に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。

明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。1869年(明治2年)に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。1876年(明治9年)に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、1880年(明治13年)には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行、みずほ銀行)に改組する。安田銀行は、諸官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり、無利子で官金を引き受け運用し業務を拡大した。





財閥としての飛躍 [編集]

1887年(明治20年)に安田保善社(現安田不動産)を設立して財閥の要とし、銀行業以外への拡張を開始、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫にまで手を広げた。1893年(明治26年)に帝国海上保険を設立し、損保業務の充実をはかり、翌1894年(明治27年)に共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石を期した。同年には海運会社安田運搬事務所を設立している。1896年(明治29年)には不動産業務の東京建物を設立し、翌1897年(明治30年)に国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立した。同年、後の太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる安田炭鉱を釧路に設置した。1899年(明治32年)には拡大した事業を統括するために安田商事を設立し統率をとり、同年紡績業務として西成紡績所を設置した。

1904年(明治37年)、関西の松本財閥破綻処理を政府に要請されるも、不採算と判断し拒絶するが、「天皇の意向」と政府に言い含められ、強引に引き受けさせられる。 松本財閥の基幹銀行である百三十銀行の建て直しに際しては、日銀の特別貸付六百万円を受けたため国民の非難を受けたが、元利そろえて返済したところ、安田財閥には、27万円の損害が残った。(『富の活動』第四編)
硫黄鉱山の硫黄採掘は集治監の囚人が酷使され多くの犠牲者を出した。
安田財閥の発展を見るとき、安田善次郎の同郷の人である浅野総一郎(浅野財閥創始者)を無くして語ることはできない。無一文から立ち上がった浅野総一郎に対する善次郎の助力は並外れており、浅野財閥自体が安田財閥の事業部門であるかの如く、鶴見埋立匿名組合(後の東亜建設工業)による京浜地区浚渫埋立事業や、浅野セメント(後の日本セメント、現太平洋セメント)や日本鋼管(現JFEスチール)への出資など、数々の事業に対する投資を惜しまなかった。安田善次郎は卓越した金銭感覚と、成功しない事業と断定した者に対する厳しさから「天下一のしまり屋」として知られており、浅野に対する投資は他の一般投資とは一線を画していた。






善次郎からの脱却 [編集]

1909年(明治42年)、安田善次郎が一線を退き、番頭であり次女の婿である安田善三郎(伊臣貞太郎)が経営を主導する。そして1911年(明治44年)に安田銀行と安田商事を合併、株式会社安田銀行とし、銀行の近代化を図る。しかし、1919年(大正8年)に善次郎と善三郎の経営に対する確執(日本鋼管に対する支配強化を主張する善三郎と、浅野総一郎を尊重する善次郎)から、安田善三郎が安田家を去る。事態の収拾をはかるため善次郎が安田家内で理事職を分担し、集団指導態勢を敷く。

1921年(大正10年)に安田善次郎が凶刃に倒れ、安田家の混乱が起こるが、長男の安田善之助が二代目善次郎を襲名し、番頭に日銀大阪支店の結城豊太郎を抜擢。結城豊太郎は安田財閥の組織変革と人材の刷新を断行し安田銀行とその傘下15行を揺るぎない組織に仕立てたが、1929年(昭和4年)にまたもや安田家との確執から結城豊太郎が解任され、台湾銀行頭取の森広蔵を番頭に抜擢する。

一族支配から企業集団へ [編集]

戦後の1946年(昭和21年)、GHQによる「財閥解体」により安田保善社が財閥本社に認定され解散。安田家に対しては財閥家族として認定し、資産凍結とともに持ち株の放出を命じ、更に関連会社役員への就職制限までも行われた。

しかし、日本の主権回復後、安田家は安田関連会社への就職制限を解かれ、安田銀行の後身である富士銀行を中核とする芙蓉グループを形成した。安田財閥は企業集団としての復活はみたが、同族経営による支配体制ではなくなった。




3 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 09:25:28

旧財閥系列の系譜をくむ主要企業 [編集]

旧安田財閥系列 [編集]
みずほフィナンシャルグループ(旧富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行の統合会社) みずほ銀行(旧富士はじめ3行の消費者、小口金融を承継。旧第一勧業銀行)
みずほコーポレート銀行(旧富士はじめ3行の大企業、資本市場取引を承継。旧富士銀行)
みずほ信託銀行(旧安田信託銀行)
東京建物
安田不動産(旧安田保善社の不動産部門)

明治安田生命保険(旧安田生命保険を承継。三菱金曜会会員企業) 昭栄(旧財閥系以外ではキヤノンが主要株主に名を連ねる)

損害保険ジャパン(旧安田火災海上保険)
東京海上ホールディングス 東京海上日動火災保険(旧日動火災海上保険を承継。三菱金曜会会員企業)

沖電気工業
帝国繊維
日本精工(安田製釘所から独立、この為)
安田工業(安田製釘所が前身)
安田倉庫
千葉興業銀行
四国銀行
大垣共立銀行
ヒューリック(旧日本橋興業+千秋商事、旧富士銀系列色)




旧浅野財閥系列 [編集]
太平洋セメント(旧日本セメント) エーアンドエーマテリアル
デイ・シイ(旧日本高炉セメント→第一セメント)

東亜建設工業
JFEホールディングス(旧日本鋼管) エクサ
JFEスチール
JFEエンジニアリング
大陽日酸(旧日本酸素、元三菱系の大陽東洋酸素と合併したため三菱ケミカルHD(旧三菱化学(旧))が主要株主に名を連ねている)

常磐興産 - 前身の一社が浅野の資本が入っていた関係から。



4 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 09:29:23

その他、戦時中に旧安田銀行の軍需指定を受けた主要融資先 [編集]
日産系列 ニチレイ(旧日本冷蔵)
日本油脂(安田財閥色強し)
日産自動車


かつて安田系だった企業 [編集]
小湊鐵道(小湊鉄道)
元安田財閥系、戦後京成電鉄傘下に入るも諸事情により資本独立、同じ安田系の九十九里鉄道と株式持合いへ。 昭和海運
日本油槽船(旧安田・旧富士銀系)と日産汽船(旧日産・旧興銀系、旧富士銀とも親密)とが対等合併して誕生。平成のバブル崩壊により経営悪化、準主力行である旧興銀の介入により日本郵船へ吸収合併。 日之出汽船
現在の日之出郵船。元浅野財閥系で戦後は旧安田系へ傾斜。上記会社と同様バブル崩壊により昭和海運傘下へ。現在は日本郵船の完全子会社。 平岡証券
かつて新光証券系の中堅証券会社。昭和後期より旧富士銀行グループとともに両社を傘下に収めていた。しかし、平成不況や21世紀初の金融恐慌(リーマン・ショック)で経営・財務状況等が悪化。結局、同じみずほフィナンシャルグループと親密である藍澤証券(アイサワ証券)に吸収合併された。 キンセキ
現在の京セラクリスタルデバイス。元沖電気工業(OKI)グループの一員で、水晶振動機を中心に展開している精密機械メーカー。親会社(OKI)の経営方針等で同社保有株式を大口取引先の一社であった京セラが肩代わり。のちに株式交換により完全子会社化、現社名に変更し現在に至る。 中国鐵道(岡山県)
元安田財閥系中国鉄道初代社長杉山岩三郎、大株主として安田善次郎も名前を並べていた。中国鉄道の主力銀行の第二十二銀行を安田銀行が支援した。明治42年安田善三郎が取締役就任。大正2年初代杉山岩三郎死去後善三郎が社長に就任。杉山家からの依頼で杉山家保有株式を保善社が譲り受け、実質的に安田経営に入る。昭和19年6月に鉄道省に買収されるが、昭和5年よりバス部門も兼業していたため、買収後は中鉄バスとして今日も岡山県民の足として欠かせない企業グループとして現在に至っている。






安田銀行に統合された旧国立銀行 [編集]
第三国立銀行(東京)
第六国立銀行(福島)
第九国立銀行(熊本)
第二十二国立銀行(岡山)
第三十六国立銀行(八王子)
第四十四国立銀行(東京)
第五十八国立銀行(大阪)
第八十二国立銀行(鳥取)
第八十七国立銀行(大橋)
第百三国立銀行(山口)
第百十八国立銀行(東京)
第百三十六国立銀行(愛知)

安田銀行に統合されていないが安田系であった旧国立銀行 [編集]
第十七国立銀行(現:福岡銀行)
第三十七国立銀行(現:四国銀行)
第九十八国立銀行(現:千葉銀行[1])
第百二十九国立銀行(現:大垣共立銀行[2])






関連項目 [編集]
安田講堂
保善高等学校
安田学園中学校・高等学校
安善駅
芙蓉グループ
みずほグループ
みずほフィナンシャルグループ 富士銀行

森コンツェルン



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住友財閥
1 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 05:55:43

住友財閥


標章:

住友井桁マーク


住友財閥(すみともざいばつ)は、日本の三大財閥の1つ。

ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。[1]

2 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 05:59:43

始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ [編集]

世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。

家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めた。政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は友以が継いだ。

以後、住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営むことになる。(現在の三井住友銀行事務センター(大阪市中央区島之内1丁目)が「住友銅吹き所跡」である。)





江戸時代 [編集]

住友二代目友以は先見の明があり、商売を大きくするには京都では狭すぎると寛永元年に、商業の中心になりつつあった大坂へ出張所を出し、寛永7年には本式に大坂淡路町一丁目に移った。ちょうど徳川時代に入るころで、銅は当時一大輸出品であり、住友の銅精錬業は大いに栄えた。これが住友財閥の起源である。そして銅貿易に関与するようになり、その関係から糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手をのばした。そして得た利益で両替商を開業するようになった。

住友二代目のあとを継いだ友以の五男・友信は住友吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させる。一方で友以の末子の友貞は前述の両替商を大坂と江戸で開始している。これが寛文2年(1662年)のころで住友家は江戸時代前期において鉱業と金融業を握るコンツェルンを確立し、慶応初期には住友は、日本の四大資産家の1つにあげられていた。ちなみに三井家が江戸に進出し「越後屋呉服店」を開いたのは延宝元年(1673年)で住友家より10年遅れてのことである。

幕府御用達となった友信以来、住友家当主は代々吉左衛門を名乗ることになるが、なんといっても住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が元禄4年(1691年)に開発した愛媛県の別子銅山によってである。この別子銅山は昭和48年(1973年)に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、総産出量は銅地金として75万トンにおよび、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この友芳を「中興の祖」としている。


3 名前:匿名

2013/03/08 (Fri) 06:03:17

明治時代 [編集]

友以・友信・友芳の三代を通じて江戸期の住友家は興隆期を迎えるが、やがて明治維新を迎えるとき、一大危機に遭遇する。幕府のすべての決定と特権を廃止した新政府の法令によって、土地所有権と有用鉱物の採掘権は切り離された。慶応4年1月の薩摩藩による大坂鰻谷の銅蔵閉鎖、同年2月の土佐藩による別子銅山の差し押さえの異常事態となり住友は鉱山および銅蔵にたいする統制力を失った。銅山は幕府の財産であったために、銅蔵の莫大な銅備蓄は差し押さえられた。その対応を一歩誤れば、住友の経営は行き詰まることが必死であった。住友家の番頭広瀬宰平がその難局を乗り切り、住友の大阪本店における経営の実権は老分鷹原源兵衛、支配人今沢卯兵衛から広瀬の手に移り、広瀬は翌年の明治2年1月、「諸事更新」の方針を打ち出した。

広瀬のこうした企業者活動の基調には、ひとつは家業経営の再建や、その近代化を意図するところがあったが、それと同時に、国益志向性の強い経営理念がみられた。広瀬は別子銅山の関連事業を中心として経営の多角化を進めた。神戸における銅売捌出張所(明治4年)大阪富島町での並合業(倉庫業と金融業との兼営)の開始(明治6年~7年の頃)、別子銅山の飯米確保のため大阪島屋新田・恩貴島新田の経営(明治11年)、京都・滋賀での製糸工場の設立(明治13年・20年)大阪製銅の設立(明治14年)、関西貿易社の創設(同年)、大阪商船の設立(明治17年)、神戸での再製茶業の開始(明治21年)、福岡県の庄司炭坑・忠隈炭坑の買収(明治26年・27年)などが相次いで実施された。こうした多角事的事業経営を支えたのは、いうまでもなく別子銅山の経営であった。

住友家法 [編集]

明治15年1月、住友家では、伝統的家業経営から近代企業経営へと大きく転換していく中で、当時住友家総理人であった広瀬宰平は、第十二代家長住友友親の命を受けて、「住友家法」を制定した。これは本店重任局の田辺貞吉を中心として編集事業が進められていたもので、全編十九款一九六カ条から成る詳細な規定となっていた。[2]

この家法では住友の伝統精神が明示されるとともに、明治維新の大きな転換期に対処するための組織や方法が具体的に記載されている。

営業要旨 [編集]

1891年(明治24年)10月、それまでの家法は「住友家憲」(全十四ヵ条から成る)と「住友家法」(第一編十七章・第二編六章から成る)とに分けられ、家憲では家長の職責が規定され、また家法においては事業運営の方法が法制化された。

これによって、「三井の番頭政治」「三菱の独裁政治」に対して住友の「法治主義」という特色が出来上がった。また「営業要旨」として家法の冒頭に二つの条文に分けて掲げられている。
第1条 我営業ハ信用ヲ重ジ、確実ヲ旨トシ、以テ 一家ノ鞏固隆盛ヲ期ス
第2条 我営業ハ時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リ、弛張興廃スルコトアルベシト雖モ、苟モ 浮利ニ趨リ、軽進スベカラズ






歴代総理事 [編集]





大阪市中央区北浜/旧住友本社
設計:長谷部竹腰建築事務所
明治以降の住友の経営は、広瀬をはじめとする大番頭(総理事)にまかされ、以後伊庭貞剛(第2代総理事)、鈴木馬左也(第3代総理事)といった名総理事に恵まれ、銀行、倉庫、保険など多方面に進出した。

その一方で住友家当主は、持ち株会社住友合資、住友本社の代表となり、「君臨すれども統治せず」といった経営分離の方式を貫き、次第に経営の中心からは身を引いて財閥統合のための象徴的存在へと変わっていった。
1877年(明治10年) - 広瀬宰平が住友家総理人となる。
1894年(明治27年) - 広瀬宰平が総理人を退任。伊庭貞剛が住友の諸事業を主宰。
1900年(明治33年) - 伊庭貞剛が第2代住友本店総理事に就任。
1904年(明治37年) - 鈴木馬左也が第3代住友本店総理事に就任。
1909年(明治42年) - 住友本店を住友総本店と改称。
1921年(大正10年) - 住友総本店を住友合資会社に改組。
1922年(大正11年) - 中田錦吉が第4代住友合資会社総理事に就任。
1925年(大正14年) - 湯川寛吉が第5代住友合資会社総理事に就任。
1930年(昭和5年) - 小倉正恒が第6代住友合資会社総理事に就任。
1937年(昭和12年) - 住友合資会社を株式会社住友本社に改組。
1941年(昭和16年) - 古田俊之助が第7代住友本社総理事に就任。
1946年(昭和21年) - 古田俊之助が住友本社総理事を退任。







財閥解体 [編集]

終戦時に住友本社が投資していた会社は120社におよび、これらの会社の公称資本金総額は100億円にのぼる規模であった。もっとも住友本社の持株比率が10%を超えるもの(いわゆる直系、準直系、特殊関係会社)に限定すれば、内外地合わせ29社であった。

しかし住友財閥の最大の特色は、第一に重化学工業中心であったこと、第二に商業部門をもたないことにあった。資本投下が金属工業・機械工業・化学工業・鉱業などに集中しており、繊維工業や商業部門への投資は皆無であった。住友本社の重化学工業部門の払込資本金比率は87%におよび、圧倒的重化学工業財閥の実勢力をしめしていた。そして重工業財閥として、直系の生産会社はすべて軍需会社の指定を受けていたのである。住友にとって敗戦は幕末維新期以来の危機であった。軍需工場として膨張しきっていたうえに、主力工場は空襲で壊滅的打撃を受け、しかも荒廃と混乱のなかで、民需転換は容易に望めなかったからである。

住友では、日本の敗戦が決定的になると、本社事務所の疎開先である京都衣笠の別邸に本社の課長以上の者を集め、戦後対策の検討はじめた。そこでの中心議題は、戦後復興、事業転換方策、人材離散を防ぐ方策などであった。9月になって、これらの問題や財閥解体などに対処するために次の五原則を定めた。
拡張しきった各方面の事業の収拾をはかるとともに、人材の離散を防ぎ、それぞれにできるかぎり仕事を与える。そのための新事業を企画する。
海外引揚者とその家族の援護を十分にする。
住友本社と住友各社の債権者にできるかぎり誠実に対処する。
住友の全事業をできるだけ滅ぼさずに転換し、将来民族と国家の繁栄につながるようにする。
極力累を住友家に及ぼさない。

ついで、9月10日と9月11日の2日にわたって、各社幹部50名をまじえて「事業転換方策懇談会」を開いた。本社側から戦後の一般情勢と本社解体の方針について説明、各社から復興のための方策と事業転換について報告がなされ、本社企画課が準備した新規事業計画案には、商事・製塩・水産・セメント・出版などの事業があがったが、商事会社設立のほかに種々の難点があった。このようにして住友では、商事会社の設立、化学工業の肥料生産への転化、金属工業の車輌工業への転化などの準備が進められた。

ちなみに、住友金属の場合は、全国18工場のうち大阪の車輌工場と尼崎のパイプ工場だけを残して、16工場を閉鎖、10万人の従業員を5千人に減らすという徹底した合理化をともなうものであった。これは春日弘(当時社長)陣頭指揮の下による日向方斉(当時企画課長)の住金再建案として知られており、実際にそのとおりに断行された。

10月初旬以来、住友と総司令部および中央諸官庁との折衝が頻繁となり、10月5日、常務理事北沢敬二郎と監事大島堅造がGHQに出頭して経済科学局長レイモンド・C・クレーマーに会い、住友本社が単なる持株会社でなく現業部門をもつこと、住友家当主は日常の仕事に関与せず総理事が実権を掌握していること、住友家は政治に関係していなかったことなどを説明、当時戦犯のうわさのあった当主の立場を釈明した。

10月18日、クレーマーは自ら大阪にきて、住友本社で総理事古田俊之助と会談した。この席上クレーマーの質問は、当主住友吉左衛門の事業責任にも及んだが、古田は敢然と無関係無責任であると答えた。そして翌10月19日、住友本社理事会は自発的解体、すなわち本社の解体と傘下企業に対する統轄の廃止を決定し、家長の決裁を得た。

住友が三井や三菱とくらべて解体に順応的にあった理由としては、監事の大島堅造が大内兵衛、田村幸策の両者とともにGHQの非公式顧問であって、情報が得やすかったことのほかに、安田財閥の自発的解体が後押しとなった。こうして住友では、早くも10月24日に本社・連系会社の全主管者を招集して次のように内示した。
住友本社を解散する
住友本社の現業部門については農林業・鉱業部門は住友鉱業へ移管する。
代表取締役住友吉左衛門、同古田俊之助以下住友本社の取締役・監査役は全員辞任する。
上にともない住友系各社はそれぞれ自主独立の会社として事業の経営にあたる。
住友系各社の社名中「住友」の名称はこれを避けることとし、逐次社名を変更する。

このようにして11月4日に日本政府から「持株会社の解体に関する覚書」が提示され、これを承認する形で総司令部からこの件に関する覚書が発せられた。これによって持株会社整理委員会を通じて財閥解体を実施するという具体的な方向が決定した。

しかし、同委員会の発足が遅れたので、住友では法律上の解散に先立って事実上の解散を行うことを決め、1946年(昭和21年)1月21日の臨時株主総会で役員の更迭をおこない、解体処理にあたる役員だけを残して、古田総理事以下主要役員は一斉に辞任した。ここに住友本社の傘下企業に対する統轄は完全に消滅し(法律上は2年後)住友の歴史は一応ここで断絶することになった。






現在(財閥解体後~現在) [編集]

財閥解体後の1949年(昭和24年)、住友各社の協力関係を維持するため、住友直系12社の社長によって構成される白水会が設立された。結成当初、白水会は秘密会であったが、昭和20年代後半にはその存在を明らかにする。「結束の住友」と言われるように住友グループは戦後の混乱期に、三井、三菱の他財閥にさきがけいち早く社長会による集団指導体制を確立し、連帯意識の統一に成功した。

現在は、グループの中核・住友銀行が三井グループの中核銀行(さくら銀行)と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも住友系と三井系の企業の合併や業務提携が相次いだ。

もっとも、旧住友財閥系の企業からなる住友グループ全体の売上高は約60兆円に達し、これは日本のGDPの約10%を占める規模である。また、住友不動産は、住友家の不動産資産を譲り受けてスタートしたことから、住友の本流を受け継いでおり、旧住友本社の資産を住友商事が引き継いでいる。

かつて、旧財閥系列の系譜をくんでいた主要企業 [編集]
ヤマハ(旧:日本楽器製造→日本楽器(ヤマハ))
関西電力 山陽電気鉄道(阪神電気鉄道翼下)
ダイビル(旧:大阪建物、商船三井(旧大阪商船→大阪商船三井船舶)系列)

NEOMAX(旧:住友特殊金属)→ 現親会社の日立金属への吸収合併により解散(現在の日立金属株式会社 NEOMAXカンパニーである)
小倉興産(アドバンテッジ・パートナーズ傘下を経てアパマンショップグループへ)
昭和精機工業(旧ヤンマーディーゼル系→アーク系)
川崎重工業(戦時中に旧山下汽船と合わせて発行済み株式の25%前後を取得していた。これが後の”川崎(グループ)の住友アレルギー”と言われる原因となった)




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三菱財閥
1 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:08:27

三菱財閥



創業者とされる人物:岩崎家

標章:スリーダイヤ


三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。

土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された(財閥解体)。

2 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 10:10:06

経歴 [編集]

財閥の起源 [編集]

三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。

土佐藩は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を弥太郎に1870年に任じた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に西南戦争(1877年)のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。

商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして対抗していた)。

だが、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がった。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が1878年に暗殺され(紀尾井坂の変)、1881年には大隈重信が失脚する(明治十四年の政変)。勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出た。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭とって三井、渋沢、大倉らの財界人を結集して設立した半官半民の共同運輸会社だった。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、1883年4月から2年間も続き、運賃の値段が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。

こうしたさなか、幕末、維新の激動のなかを風雲児として駆け抜けた弥太郎が病死する。死後、三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(1885年9月、資本金1,100万円、うち岩崎家出資金500万円)させて、この死闘に終止符をうった。明治18年に弥太郎亡くなったあとは、三菱の重鎮として、岩崎一族には、弥太郎の従弟・豊川良平や近藤廉平(妻が豊川良平の妹)、弥太郎の姪姉妹を妻とした荘田平五郎・各務鎌吉などがいた。この豊川良平、近藤廉平、荘田平五郎のほかに、末延道成を加えた4人が、弥太郎亡きあとの三菱発展に大いに貢献し、“三菱四天王”といわれた。

弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった。この後、三菱総帥の地位は、明治26年に三菱合資会社を設立した時点で、兄弥太郎の長男・久弥が継ぎ、さらに大正5年弥之助の長男・小弥太に引き継がれ終戦を迎えることになる。

このように三菱財閥は弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。

三菱商会 [編集]

1874年、三菱商会は本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名を重ね、主力事業である海運業においては外国勢力や中小の船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得た。しかし三菱の独占と専横を快く思わない渋沢栄一や井上馨や品川弥二郎らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、政府の出資も得、三井などの反三菱勢力も結集して1882年7月に共同運輸会社が設立、翌1883年営業を開始した。三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。

続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなったが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となった。さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、1885年に共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立された。三菱は中心事業である海運業を一時的に失ったが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなった。

1885年の弥太郎死去後、その弟・弥之助が後を継いだ。岩崎弥之助は三菱社と改名し1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図った。

炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立した。

1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大された。

1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置いた。

1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大した。

スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名だが、これは土佐藩主山内家の家紋の「三ツ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせたものであった。戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中では唯一創業者の姓を冠さないものとなったが、これは新政権の明治政府に奉公するという岩崎の気持ちを表したものだったといわれる。

財閥解体後の三菱 [編集]

戦後、連合国の方針に基づく財閥解体政策によって三菱本社、三菱商事は解散。三菱重工業、三菱化成が三分割に追い込まれた。死の床にあった小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁したが、時代の流れに抗う事は出来なかった。当時の模様を三菱合資会社社長の久弥は「すっかり裸になった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残った。自分はこれまで長子以外は一族親戚の者も三菱本社に参加させなかったのに(11人もの指名を受けるとは)ヒドイものだ」(岩崎久弥伝)と憤懣やるかたない心情を吐露している。しかも下谷の茅町にあった本邸はアメリカ軍に接収され、ついで財産税のために手放したため、久弥は一時その一室を間借りしていた。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在価値に換算して推定120兆円と考えられている。

しかし、1954年に三菱商事が再合同、また、同年には三大財閥中2番目に三菱主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした三菱金曜会が始められ、10年後の1964年には三菱重工業も再合同するなど再びグループ化した。金曜会は、戦前の三菱本社を頂点とした三菱財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成である。ちなみ、住友グループは1949年(正式には、1951年4月)に白水会が設立され、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立している。

三菱グループは、特に戦後の日本の高度経済成長期に、高度成長を担った重化学工業分野に中核有力企業が多いという強みが大いに発揮し、戦後も引き続き、日本を代表する企業グループの一つとして発展した。





現在(財閥解体後 - 2009年現在) [編集]






この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2008年2月)


21世紀現在の三菱グループ(金曜会)には三菱商事、三菱重工業、三菱東京UFJ銀行の「三菱グループ御三家」を筆頭に、多数の日本を代表する企業が連名している。その中には三菱自動車工業や明治安田生命保険のように社会問題を発生させた企業もあり、今後、ますますコンプライアンス遵守に向けての真摯な取り組みが求められている。

一部の企業における自衛隊への納入実績の大きさなどから、かつての国防国策会社としてのイメージが現在でも残っている。高度経済成長からバブル崩壊期までは、例えば、グループの製品を優先的に購入する、グループ内の問題の負担を各社で負担する、など、グループ同士での結束が他の財閥系グループと比べ大変強い面があった。「「三菱」と名の付く会社の宴会では、キリンビールを出すのが慣例である」との飲食店業界でのジンクスもあった程である。

しかし、バブル崩壊、経済のグローバル化以降は、金融自由化の波の中、グループ間の結束力は外部から思われているほど強くはなくなってきている。むしろ、あまり表に出てこない新財閥グループの方がグループ企業間の結束が強いと見るべきである。従来は川上製品に強く、川下製品に弱いとされてきたイメージがあったが、そのイメージを払拭すべく、各企業は製品開発および市場開拓に励んでいる。

また、グループ内企業の社員に毎月配布されている広報誌「マンスリーみつびし」は、2007年7月号において通算500号に達した。

三菱財閥歴代総帥 [編集]



三菱財閥歴代総帥



代数

氏名

在任期間

主な職歴



1

岩崎弥太郎

明治6年(1873年) - 明治18年(1885年)

〔職〕九十九商会



2

岩崎弥之助

明治18年(1885年) - 明治26年(1893年)

〔職〕三菱合資会社総裁



3

岩崎久弥

明治26年(1893年) - 大正5年(1916年)

〔職〕麒麟麦酒創業者



4

岩崎小弥太

大正5年(1916年) - 昭和20年(1945年)

〔職〕三菱重工業創業者


関連項目 [編集]
岩崎家
三菱商業学校(明治義塾)
三菱商船学校(現東京海洋大学)
三菱グループ
長崎製鉄所
富士紡ホールディングス(旧富士紡績)
旭硝子
三菱UFJフィナンシャル・グループ
三菱商事
三菱自動車工業 三菱ふそうトラック・バス
明治ゴム化成

三菱マテリアル
興人
宇宙通信
島津財閥 島津製作所
日本輸送機(ニチユ)- 三菱重工関連会社
GSユアサコーポレーション(旧・日本電池)
大日本塗料

森村財閥 ノリタケカンパニーリミテド
日本ガイシ
日本特殊陶業
TOTO
住生活グループ(LIXIL)- INAX

川崎財閥(東京) 第百銀行(のち三菱銀行へ吸収合併)
常陽銀行
足利銀行
千葉銀行
NKSJホールディングス - 日本興亜損保
マニュライフ生命保険(旧第百生命保険の受け皿として新規参入)
横浜銀行(明和・鎌倉の旧東京川崎系両行が神奈川地銀の大合併に合流)
山陽鉄道 (現在のJR山陽本線の源流)




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四大財閥
1 名前:匿名

2013/03/02 (Sat) 09:58:44

四大財閥

安田財閥を除く3つを特に三大財閥と呼ぶ。
三井財閥
三菱財閥
住友財閥
安田財閥

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